「ちょっ……ダメだって!!」
古い友人が来るというので戒仁は、もとから物が少ないリビングの新聞をそろえたり置きっぱなしにしていた本を棚に戻したりする程度に片付けていた最中、予定の時間より少し早くチャイムが鳴った。
三年前あたりから柔らかくなり始めてはいたがそれでもかなり几帳面な友人も来ることになっている。時間ぴったりに来るだろうと予期していたので不思議に思いながらもインターホンで確認してみるとそこにいたのは旧友ふたり、でなくそこには恋人の姿。
ドアを開けるや否や無言で部屋へ。失礼な態度だが、それを戒仁が気にした様子はない。
多くの人に――肉親にすら―どこか他人行儀で接する彼に信用を得ているというのは名誉に感じることのようで。戒仁本人が大らかな性格であるのも一つだろう。
しかし今は慌てて制止しようと躍起になる。
「亮! ダメだって、今日は友だちが来るから……!!」
その言葉を聞くと、怪訝そうに眉を寄せた恋人である彼。今は亮の吐息が感じられるほど近くにあり、壁に背を預けすでに腰を落とした状態。逃げ場がない。さすがの戒仁にも困惑するほかない。この状況が何を意味するか、わかりきったことで焦っていた。亮の目が本気なのだ。
「……今日、何の日?」
彼の本日、初の台詞。
戒仁は少しパニックになっている頭を活動させるが、特に思い当たる節がない。彼の誕生日じゃないし……と内心呟くと表情を見て悟ったのか、嘆息をもらす亮。
「お前のことだろうから、そんなもんだろうと思った」
もう一度ため息。しかし壁にて動きを遮る両手は一向にそのままだ。
「ご、ごめん……何の日だっけ……?」
「……」
しどろもどろに謝る戒仁に諦めたような顔の亮。え、とすら戒仁が言葉を発せられないほどの速さで――唇は閉ざされた。
「ん、んん……っ!!」
唇を合わせる程度のキス……しかし頭をしっかりと固定され逃げることも叶わず、されるがまま。抵抗しようにも身体が密着していて身動きがとれない。リップ音が何度も部屋中に響き、二人しかいないとわかっていても恥ずかしい。だが亮はお構いなしで続けてくる。
「りょ……んっ、止め……っ……!」
必死の紡ぐもかき消される。幾度となく吸い付き、その行いに没頭する彼。戒仁の唇は通常より赤く腫れ上がり始めるとどこか妖艶さが醸し出される。それに満足したのか、優しく、しかしどこか乱暴に口をこじ開けられ舌が侵入を開始する。
「ふ……ぅ……ッ!」
歯列をゆっくりとなぞられ、舌で押し返そうとするも絡み取られ逆効果。くちゅ……っとなまめかしい小さな水音が羞恥を高めた。
何度も何度も角度を変えながらの濃厚なキスに二人の混じりあった唾液がその度に口の端からトロリとこぼれ落ちていく。
いきなりの事でもあり、呼吸がうまくいかないのもあるが、その行為の快楽に生理的涙がじわりと滲む。
そこでやっと唇が離された。
「はぅ……ぁ…っ」
唇の離れた今、大きく呼吸をして少し朦朧とし始めていた意識をなんとか正そうとするが
「ふぁッ!?」
亮は戒仁のシャツのボタンを素早い手つきで外して首筋をさらけ出し、舌を這わせていた。暖かくぬるりとした感覚に驚き、小さく悲鳴を上げる。
「うぅ……ぅ……」
「……何の日か、わかったか……?」
亮のいつもより低めのトーンの声と熱い吐息が耳を撫でる。するとドクンと心臓が大きく一度跳ねた。それからも小刻みに高鳴る。今日という日の意味を必死に思いだそうとするが昂揚する気持ちを振り払うことができず、思考がぐちゃぐちゃに乱れていく。これ以上声を出すのは亮を煽るだけと口を堅く噤むも、首筋にキスを落とされたり甘噛みされるだけで身体が痙攣したかのように小さく跳ねる。
戒仁の理性も、もう限界に達しそうだった。身体の熱が高ぶり、このまま欲してしまうと理解していて止められそうにない。もっと刺激が欲しい……と、夢見心地なり始めていた、そんな時に。
ピンポーン……――
聞き慣れたチャイムの音が、現実へと引き戻させた。
「はぁぁぁいッッ!!」
「グフッ!!」
そろそろ抵抗されなくなり力を緩めていたせいであろう、亮は戒仁に横払にされ床に肩から倒れた。うまく受け身が取れずダメージがそのまま肩より伝り……よほど痛かったのか、もがくように床を這いつくばる。そんな中、戒仁は真っ赤な顔でいそいそとシャツを着直し、インターホンで「部屋の前で待ってて! すぐ行くから!」と答える。
「……かーいーとー……?」
「だから! 友達が来るんだからダメなんだってばっ!」
肩の痛みと先ほどまでの行為を中止されたことで完全に怒っている――痛みは自業自得な部分もあるので素直に怒れない――亮であるが、戒仁も戒仁で二人がすぐそこまで来ているので必死だ。
そこで、ふっと怒りが沈静化した……というより、なかば諦めたように亮の肩から力が抜ける。
「……今日で、付き合って一年なんだけど」
早急に周りと身なりを整え始めていた手がふいに止まる。亮に視線を向ければ彼はふてくされたようにカレンダーを見ていた。
「…………え、う、ッ!?」
「……我ながら女々しいと思うよ、そんな日を覚えてるとか」
キャラじゃねーよなぁ、とうなだれつつ本日幾度目かのため息。戒仁は自分であけた間合いを勢いよく詰めるものの、顔を少し青ざめさせて口をパクパクと魚のようにさせて言葉が出てこないようであった。
「……だ、……きょ、今日まで……な、なに、も……!?」
「……覚えててくれるんじゃねぇかぁ、と三崎くんはかなり期待して言いませんでした、まる」
小学生が作文を読む時のような棒読み。つんと顔を背け次の言葉を待ってみるも長い沈黙が落ちた。
視線だけおずおず向けてみると「……ごめんなさい……」と小さな声。戒仁が今にも泣き出しそうな表情になったのを見て『イジメすぎた』と思い、できるだけ優しく戒仁の頬に触れた。
「ただのガキ臭いワガママだって。そこは大人っぽくかわせ」
「……でも、ぼく……」
「いーから。俺をこれ以上惨めにさせんな、ばか」
今までのはジョーダンだよと言いたげにかすかに笑う。それでも戒仁の顔は晴れない。
「んな顔してると、お客さんが心配するぞ」
「……うん」
やっと見せたちょっと困ったような、笑み。励ますようにぱちぱちと小さく頬を叩いて腰を上げた。
出てしまった以上、居留守は使えない。それに今日は迎えるという決定事項が存在するのだ。亮は客人と対面するつもりもないらしく戒仁の自室の方に入っていく。
「……」
それを見て、戒仁は何か考えるように視線だけ少し俯き……一旦、ドアを開けた。
「……ん?……待たせてんだろ?」
窓側に立っていた亮が振り返る。先ほどまでのことを気にしたふうはまったくない、自然な動作。戒仁は言葉を少しずつ見つけるように、口を開く。
「……今日で一年なんだね」
「あぁ」
「亮と……ハセヲと出会ってまだそれだけなんだね」
「そうだな」
「ずっと一緒にいるから、もっと昔から一緒にいる気がしてた」
「……」
「当たり前すぎて忘れるなんて……ごめんなさい。……覚えててくれて、ありがとう」
戒仁は少しだけ視線を泳がす。ほんの数秒後「……よし」と決心した表情と小さな言葉をもらし、近づいて少し膝を屈めると。
ちゅ。
キスをした。唇と唇が触れるだけの、ほんの一瞬の、キス。
「こんなぼくだけど、これから先も……一緒に……いて、ください」
そう言い残すと耳まで赤に染めて逃げ出すように小走りで部屋を出て行った。
残されたのは事の成り行きに身を預けてしまい亮のみ。ポカーンとしていた彼だが、一瞬にして戒仁に負けないほどの赤面となった。
こういうことに対して積極的な彼も見る機会はなかなかないのだ。思わず誰が見てるわけでもないが、だらしがなく緩む口元を隠す。
これから先も、……ね。
先ほどの戒仁のセリフを何度も頭の中に反復させる。そして、それに答えるように呟いた。
「当たり前だろ」
(謝罪も感謝も、そんな言葉はいらない)(当たり前のように)(ふたり、一緒にいよう)