バサバサと書類が手から滑り落ちた。
一之瀬さんがこの八十稲羽を去ってから一週間と少し経ったが、まさか電話越しに別れを切り出されるとは思ってもみなかった。 毎日のようにメールや電話をしたりのがマズかっただろうか。気に入らないところがあるなら直す努力をするから言ってくれと告げようとするも、口とノドが乾ききって言葉が紡げない。それに向こう側で好きな人でもできたという可能性も捨てきれない。そう言われてしまえば、もう僕からはなにも言うことができなくなってしまう。
ぐるぐると思考が回り、混乱と悲しさが混ざって自分でもわけがわからなくなり、無意識かつ素早くケータイを切ってしまった。
「…………どうしよう」
その場に座りこんで、途方にくれた。
どうしよう、なんて、あの人が別れることを望んでいるんだから、選択肢はないのに。嫌だ。別れたくない。シャドウと同じように駄々をこねる自分がいた。
そんな思い悩むなかで無機質な電子音が部屋に響く。来客だ。時計が刻むのは早朝の時間帯で、今日は薬師寺さんが来る予定もない。誰だろうか。 居留守でも使ってしまいたいところだが、ふらふらと身体は意識に反して動いた。玄関まできて、壁にかけてある鏡には血の気がなくなった自分があって、愕然とする。もっと自分は強いと思っていたけど、まったく脆弱だった。彼から一言、あんな一言だけで痛いほど絶望している。 もう一度チャイムがなって我に返り、鍵を下ろして扉を開ける。あ、相手をレンズ越しに確認してな、……い……。
「やっぱり最後まで聞いてくれなかったよな、直斗は」
そこに立っていたのは、ありえない人物。先ほど、別れを切り出してきた恋人だった。
あの灰色の髪と、同色の鋭い目がそこにあって息と思考と言葉が詰まる。 遮断される。うそ。なんで。視界がボヤけてきた。
……マズい、涙がでそうだ。
「……面と向かって……お別れ言うためにここまで来たんですか……」
自分でもわかるぐらい震えた声で呟いた。先輩が困った顔をしてる。僕のバカ、聞き分けのいい後輩になれ、恋人の立場がないなら、そうでもしないともう一生会えないことになるかもしれないんだぞ。そんなの過酷すぎるじゃないか。
「あのね、直斗。聞いて」
あぁ、また再度別れてくれと問われるのか、と思うと背筋を冷たい鉄の棒が突き抜けるような、重みと傷みが居座る。逃げたい、怖い、と全身の細胞が訴えるように鳥肌が立った。でも、覚悟する。しっかりと先輩の言葉を受け取り、僕の思いを伝えられるように。
「今日は何日?」
「……1日、です」
「何月」
「4月」
「なら何の日かな」
そんな問いかけにすらビクビクしながら答えていって、いったん考える。今日は何の日……?
「……エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』がグレアムマガジンに掲載された日……?」
「……そこをチョイスしてくるのはさすがだけど、もっと、ほら、あるだろ」
4月1日。4月1日。……わたぬき? いや、メジャーななにかがあったような
…………あ。
「…………エイプリルフール」
「正解」
ガクッと膝から力が抜けた。そんな僕を支えてくれている一之瀬さんだが、いやむしろ倒れこみたい。このまま意識を失って頭を打ち付け記憶喪失になりたい。なんてことだ。完全にハメられた。いや、ただの僕の早とちりだ。
「……大丈夫?」
「……平気です……でも……気づかなかった自分が情けない」
彼からすると他愛もないものだっただろうが、僕にはナイフで身体を裂かれるぐらい強烈な嘘だ。
「……で、どうしたんですか。嘘つくためだけに来たわけじゃないんでしょ?」
疲れがどっと襲ってきて、ため息混じりに訊ねる。返ってきたのは、まだ一週間と少ししか経っていないのに懐かしさで胸が詰まってしまうほど見慣れた苦笑。
「嘘つくためというか、ときどき暴走しちゃう将来の雇い主が電話を途中で切ったときの保険っていうか」
告白したときも答え聞けずにさっさと帰られたし、と言われてしまうとぐうの音もでない。
「本音としては、寂しくて」
そしてそのセリフに言葉を一瞬、忘れる。 ……寂しい? あなたが?
「ダメだよな、まだ一週間ぐらいしか経ってないのに。こっちにいたときは、学校にバイトにテレビにって忙しかったけど、今は急いでお金が欲しいってわけじゃないから、ヒマなんだよ。勉強とか読書とか家事や料理してても、結局こっちのことと……直斗のこと考えて、寂しくなるばっかりだし。なら休みだから、資金は充分にあるしこっちに来ちゃえって思い立って」
来ちゃった、と無邪気に笑う。
「……いいんですか、学校側に届けとか大変なんじゃ」
できるだけ素っ気なくささやいた。帽子は部屋にあるから、表情が隠せない。耳まで熱くなってるから、隠しても無駄だろうけど。
「そこは学生らしく親に任せた。親の都合で転校することになったんだから、それぐらいワガママ聞いてほしいしね」と子どもっぽく言うあなたは続けて「……エイプリルフールで傷つけるような嘘ついたらいけないのにな……ごめん」なんて大人びた目で笑うから、本当に敵わない。
もういっぱいいっぱいになって、腕を回して抱きついた。熱くなった顔を服にうずめると、あなたの匂いがする。それは簡単に手放せない、幸せのひとかけらだ。
「エイプリルフールでついた嘘は、今年中には叶わないっていうジンクスがあるから、また来年も、そのまた来年も嘘をつくよ。……離す気なんてないから、覚悟してくれ」
茶化すような声色のあなたはわかってるのだろうか。 応えるように抱きしめてくれたあなたの優しい声も、ぬくもりも、全部全部、なくてはならないもの。 あなたを、一之瀬恭平さんを知ってしまったからには、あなたがいないと、僕は生きづらいってことを。
あなたこそ、覚悟すべき。
(挑むところだ)(もう、なにがなんでもあなたを離しはしないですよ!)
冷静沈着な直斗くんもイイですが自分のことや主人公のことで早とちりしてしまたったりしても良いのではないでしょうか。とくに恋愛関連には、パニックになりやすいとか。しかし立ち直りも早い。