「もうすぐバレンタインだね」
ヘルメットを外して髪を整えながらりせは呟く。到着した沖奈市の駅前はバレンタインの広告がそこいらに見受けられ、二月十四日のイベントへの雰囲気がいっそう深まっていた。
「そうですね」
「チョコって見てるだけで楽しいから好き。ラッピングとか種類もたくさんあるし……でもみんな欲しくなっちゃうから困るんだよね」
「僕はこういったイベントは今まで縁がなかったです」
「え、そんなはずないよ」
「……なんで言い切るんですか、無縁ですよ」
「嘘。貰ったでしょ、いっぱい」
嘘だ嘘だ、と不思議がりつつ問いつめてくるりせ。原付から下り、いつもの帽子をかぶりながら直斗は困った顔で笑う。
「受け取ってませんし」
「……ふーん、探偵王子はドライなのね」
「そんなんじゃなくて……応えれもしない好意は、受け取れないから」
昔は『迷惑だ』なんてストレートに思っていたが、稲羽市にきた直斗の考えは柔和なものとなっていた。今なら理解できるのだ。自己満足でも、欺瞞でも、救われることはあると。
しみじみ思いを巡らせていると、直斗の顔を見ながらりせはニヤニヤとしていた。
「な、なんですか」
「んー? いやぁ私の好意にはちゃんと応えてくれてるから、すごく恵まれてるなぁって思ってただけー」
茶化すような声色に直斗は顔を赤くして唇を尖らせたが、「寒いし早くお店入ろう」
と手をとった彼女にひかれて歩き出す。指と指が自然と絡み、そこから伝わる温かさに拗ねた気持ちをすんなり投げやった。
そしてそっと町中の広告に目をやる。
バレンタイン。チョコレートなんて菓子会社の企業戦略だけど。今年はそれに便乗するのもいいかもしれない。
そんなことを考えつつ、手入れが行き届いた綺麗な髪をなびかせ歩む彼女に導かれ雑踏に紛れていった。
***
バレンタイン当日。
昨日のうちに作っておいたトリュフを持って学校へ向かった。初心者でも簡単という、レシピ通りきっちりと完成したチョコレート。簡易ではあるが直斗なりの精一杯の洒落っけでラッピングもした。いつも通りの時間に出てきたものの、通常より早い到着になったのは気持ちが先急いでいたせいだろう。そんな自分に呆れながらもりせの姿を探す。今日は日直と言っていたのでもう教室にはいるだろうとふんで隣のクラスへ足を向けた。
二組の教室の扉は開いていて、廊下からでもわかるほど活気にあふれていた。クラスの中の様子を伺うと、人で塊ができていて、そこの騒がしい中心にりせがいるのがすぐわかる。
「いいよなー、女子は全員、りせちーからチョコもらってんだぜ」
「男もこの間の文化祭手伝った奴には配られてるし。まぁ市販って一目でわかる義理チョコだけど。あー、俺もちゃんと参加すればよかった」
ドア付近にいた男子ふたり組がそう遠巻きにボヤいていたのを聞き、りせをまた見やる。
女子に囲まれて、アイドルとして表舞台に颯爽と立っていた時と同じキラキラ輝く笑みを振りまく彼女。芸能人として数多くのファンを作ってきたりせの笑みは愛らしく、気配りのできる姿勢に男女共に魅了されるのは当然のことだ。
そんな彼女が遠く、眩しい。そう感じた直斗の胸に小さな痛みが刺さる。そんなうずきを抱えつつボーッと彼女だけを見ていた。
告白してきたのはりせからだった。
いつもなら、そう同級生などだったらすんなりと断れた。それに今のこの八十神高校、いや稲羽市では直斗の性別はずいぶんと前に露見していたので、同性からのそういった発言はほぼないに等しかった。ないわけではなかったのだが、ただの思春期の勘違いだと決めつけていたし、直斗自身それを断るのには慣れていた。
だが、相手はりせだ。特別捜査隊のメンバーであり直斗の生い立ちもそれなりに知っている人で、男の格好をしている直斗に間違っても想いを寄せるような相手ではない。
戸惑うしかなかった。今まで告白してきた中でこれほど直斗を狼狽させた人はいなかっただろう。
直斗にとってりせは初めてできた同年代の女の友人だったと言っていい。
最初こそ凶悪事件の犯人、もしくはなんらかの形で関わりのある人物とは思っていた。それが数回の接触のうち、りせは直斗の言葉に静かに、しかし力強く言い返してきた。ただ舞台上で台本通り演じるだけの芸能人ではなく、ひとりの少女が自分の言葉で直斗に対立した。
その後、影とのことで直斗の今までの概要を知った彼女は謝罪をしてきて、直斗も特別捜査隊の皆に触れていくなかで考えが改まっていった。
そしてそれはそばにいて“今しかできないこと”を教えてくれたりせの存在が大きい。そんな彼女からの好意の言葉に、混乱しなかったほうがおかしいと言えるだろう。
だから直斗は悩んだ上で、その好意を受け入れた。
ただ唯一離しがたい友愛を壊すのが怖かっただけ。伸ばされた腕を一度振り払ってしまえばもうその手にすがることは許されないと、それだけを思っての行動だったが、りせとの関係は変わらないようで大きく変化した。
彼女を好きになっていった。
友人としてではなく、傍にいたいという欲求が強くなるのを日に日に感じていった。
「し、白鐘くんっ」
心ここにあらずの間に、背後から名を呼ばれ直斗は我に返る。後ろには同級生の女子が立っていた。
「こ、これ、今日バレンタインだから……よければ、う、受け取って!」
堅い仕草で突きつけたギフトバック。登校してきた生徒が数多くいる廊下で視線が大量にあったが、とくに気にしなかった。赤に近いピンク色のそれに目を奪われながらぼんやりと考える。
『……ふーん、探偵王子はドライなのね』
『そんなんじゃなくて……応えれもしない好意は、受け取れないから』
少し前にりせと交わした会話。
ただの憧れ。偶像。それを想って、自己満足のための行為。それはなにも悪くない。人間は満たされるためならさまざまなことをする。そうやって生きて成長をしていくのだから。それを無駄と一方的に吐き捨てるのは思い上がりというものだ。
りせを好きになって、同性からこういった好意を向けられるのを“思春期特有の勘違い”などと言えなくなった。そんな言葉で済ませられるような感情なら、息苦しいほど心をかき乱されるはずないのだ。
直斗はそれを理解していたから、この行為に、好意という感情に、しっかりと向き合うべきだと思い直していた。
「ありがとう」
直斗は手を伸ばす。しかし触れる寸前で後ろから笑い声が聞こえた。りせとクラスの生徒のもの。それが耳をかすめるとピタリと身体が固まった。
「……し、白鐘くん?」
目の前の同級生が伺うような目で見つめてくる。彼女は彼女なりに勇気を持ってして声をかけてくれたのに。
それはわかっていたのに、自分の意思では身体が動かない。
「ごめんなさい、これは受け取れません」
そして息をするように出たその言葉は直斗自身にも意外なもので。同級生は目を見開いて、恥ずかしそうに口を結んだ。謝罪の声があがる前にその手に触れる。
「でもありがとう。気持ちは嬉しい」
そう言って精一杯はにかむ。それは少しだけ苦しげだったが、目前の同級生の思考をパニックにして顔を染めあげるには充分な笑みと行動だった。
「ごめんね、チョコレート苦手なんだ」
「そ、そうだったんだっ! 嫌いだなんて知らなくて私ったら……っ!」
「手間かけさせちゃってごめんなさい。また声かけてくれたら嬉しいよ」
「ほ、ほんと? 話しかけても、いいの……?」
「もちろん」
予鈴が頭上で響いた。その同級生が三組へと戻るのを見送ってから一歩を踏み出す。
視界の隅でりせが直斗を見ていたが、一瞬だけ通じあった視線を、これまた一瞬で断ち切り、歩きだした。
***
本チャイムを聞きつつ空を見上げる。
そのまま教室へは戻らず、屋上に身を寄せていた。SHRと一限目はここで過ごそうと決めて。
まだ二月の空気は肌を裂くように冷たい。誰が来てもいいように壁で身を隠すようにして座り込み白く凍った息をつく。
あのチョコは受け取るべきだったんじゃないか。
そう思っていたのに、なぜあんな対応をしたのか。冷静に考え、意見をまとめたくなったのだ。
その答えはもう出ている。
・不特定多数の想いなんていらなかった。
・りせが不特定多数に想いを分けてたのが気に食わなかった。
その二点なのだ。浅ましい独占欲と、利己的な矜恃が直斗の心に巣食っている。それはどうしようもなく恥ずかしく思ったが、拒否することはできずに持て余した。
今の自分は自分らしくなくて、逃げ出した。そのまま帰ろうかと思ったのに、近かった自分の教室より屋上に走ってしまったのは、頭を冷やしてこれからのことを整理しようと考えたからなのだろう。行動より思考を重視する自分の本質はこういうところで出る、と直斗は頭を抱えた。唯一褒められるとすればあの同級生に、手に持っていたギフトバックを見られないよう隠した機転の良さぐらいか、と自分を嗤う。
冷たい風が全身を打っても、それ以上の思考はまとまらない。ぐるぐると自分の女々しさに嫌気を覚える。……前にもそんな感情に悩まされたことがあった、と記憶に引っかかった。
それはりせのことが本当に好きになって、自分が同性であったのを責めたときだ。
そのときの苦い記憶を振り払うように乱雑に包装を破り、中から自分で作ったトリュフをとって一口。甘い。またひとつ、もうひとつと口に放り込んでいく。口内にじんわりと広がる甘さ。それすらもイラだって残り全部を口に放った。口いっぱいのチョコレートに蹂躙されて、さすがに甘いものが好きな直斗でも頭に鈍痛と背筋の寒気が走る。そのまま噛み砕き、少しずつ飲み込む。涙で視界がぼやけた。
「あ、やっぱりここにいた」
「!」
振り向くと今は心底会いたくない人物がそこにいた。
屋上のドアが開く音は強風で聞こえなかったようで、突然現れた彼女に動揺する直斗だったが、その人物――りせはなんのためらいもなく横に座る。急なことで飲み込むという動作をふいに忘れてしまっていた直斗は咀嚼を続けた。やけを起こして一度に多く口に含みすぎたのだろう、無理には飲み込めない。
「ねぇ、さっき……」
りせの視線が下にいく。直斗の膝に乗ったギフトボックスと破いた包み。
「……なーんだ、チョコ貰ってるんじゃん」
そう言ってどこかいつもと違う――ぎこちない笑みを見せたりせの表情が、そのセリフを言い終わると同時に凍り付く。そして大きく目を見開いた。
「……それ、直斗くんの手作り?」
――ここで直斗がお得意のポーカーフェイスでごまかせばよかったのかもしれない。しかし直斗は好意を持った人間の前では――とくに恋人の前では、あまりにも素直な女の子だった。
反射的に顔をそらす。
それだけの動作が、りせのセリフを肯定するには充分なものとなったのだ。
そしてりせがどのようなアクションを起こしたかといえば、強引に直斗の顔を自身のほうへと向かせ、そしてこれまた強引に唇を押しつけたことだった。
「!?」
思いがけない行動が起こりすぎて直斗の思考と身体がストップ。そのままぬるりとしたものが割って入ってきたのもなされるままになって、数秒の時を経て硬直した四肢を強制的にばたつかせ後退した。口内のチョコレートはいつの間にかなくなっていた。
「な、ななん、っ!!」
「私の勝手に食べちゃダメでしょ」
「り、りせさんのじゃないです!」
「私にくれるはずだったチョコ勝手に食べたんじゃん」
「ち、違います!断じて違いますっ貰ったんですっ貰いものです!!」
「嘘つかないで」
ピシャリと言い放つとりせは真摯な目で直斗を射抜く。
「私、直斗くんみたいに頭いいわけじゃないけど、人をみる目だけは誇れるんだから。それに直斗くんのこといつも見てるから、嘘ついたってバレバレだよ」
そこまで言われて直斗はなにも言い返せない。それに“いつも見てるから”。その一言に、胸に居着く痛みが甘いものとなる。また顔をそらした。
「……でも、ごめん。場所が場所なのに、こんなことして。いやだった? 気持ち悪かったら、ちゃんと言って」
「違いますっ! そういうんじゃ、なくて……」
りせは目に見えてしょぼんと目尻を落とす。直斗はすぐに訂正するため目を見据える。
そして荒ぶる風の間に空白の時間を挟んで、深呼吸。
直斗は、しっかりと考えを口にした。
自分の気持ち。嫉妬。
いつものようにツラツラと語れることではなくて直斗は苦虫を噛むような心境ではあったが、りせはしっかりと見つめ返してくれていたから、それに応えるため必死に想いを言葉にする。
寒さも相まって、少しずつ距離が縮まっていた。身体も心も寄り添い、熱を共有するようにふたりは互いにもたれかかって話しをした。
「直斗くんがヤキモチ焼いてくれたのは嬉しいけど、だからってチョコ自分で食べないでよ。ちゃんと渡してほしかった」
「自分でも反省してます。自暴自棄になってたのが恥ずかしい」
「まぁ、反省していればよろしいことですわよ」
そんな芝居がかったりせのセリフにお互い笑みをこぼしつつ、直斗は自分自身の愚か加減にため息をついた。
「本当、僕は女々しいですね。こういうことで悩むなんて」
「女々しいって女の子なんだから当たり前じゃん。いつも事件をクールに推理してみせるところを考えると、確かに珍しいけどね。そういうギャップも直斗くんの魅力だよ。それに私だっていっぱい悩んでるんだから」
「いっぱいあるんですか、悩み」
「私だって恋する女の子だからね」
「……りせさんは、僕が」
男じゃなくてガッカリしていませんか。
……そう問おうとして、口をつぐんだ。前にも同じように訊ねたのだ。
本当にりせを恋愛対象として見るようになって、思い悩んだ。自分にりせを幸せにできるのだろうか。
時期は未定でも、りせは早い段階で芸能界復帰を目指している。その障害になるんじゃないか。同性愛は今の日本で理解が深いとはいえない。バレたらスキャンダルになる。
そんなことを悩んで、悩んで。悩み抜いてりせに打ち明けた。
『不確かな未来なんて考えなくていいから、今この時を一緒に感じて』
苦しそうに呟いた。それが彼女の返答。
彼女自身も悩んでいて、答えが見つけ出せなかったのだ。先延ばしにしたって良いことなんてない。わかってはいたが、それでいいと納得できた。人間とはままならない。未知数の将来より、今ふたりでいる現実を選んだ。
言いかけたことの続きを待っていたりせに首をふる。そして笑いかけると、彼女も察してか深追いはしなかった。
「なんでここにいるってわかったんですか」
「クラス覗いたけどカバンだけあって姿がなかったから、屋上かなって。直斗くんここ好きだもん」
「よく知ってますね」
「というか高いところ好きだよね? いつも高台とかにも行きたがるから、そうなのかなって思ってたんだけど」
「……あなたの観察眼には目を見張ります」
「ペルソナだけじゃないんだよ。それに言ったじゃん、直斗くんをいつも見てる、って」
そう言いきって腕を絡ませるりせ。ウインクをしつつあどけない笑みを向けられて――その表情はクラスの誰かに向けられているものとは少し違っていると感じ――幸福感を胸にいっぱいにして微笑みかえす。
「……寒くないですか」
「寒いけど直斗くんと一緒にいられるからいい」
「よくないですよ。身体冷やしたらダメです」
「自分のこと棚にあげる人のことなんて聞きませーん」
「う……」
「あ、そうだ」とりせは紙袋のなかから包みをひとつ取り出す。
「本当は手作りしたかったんだけど、うまくいかなくて」
上品な包装紙に包まれたそれ。有名メーカーの菓子とわかって直斗は目を丸くした。
「高いんじゃないですか」
「私も食べたかったし奮発しちゃった。本当は放課後に家に寄ってもらって、甘いホットチョコと一緒に食べようと思ってたんだけど」
予定が前倒しだけど仕方がないよね、とほがらかに笑った。
「カカオの香りがいいんだって。どーぞ」
さきほどの口に広がる甘さによる鈍痛なんてもう影も形もなく、差し出されたそれをひとつもらおうとし手を伸ばした……がその指が空振る。直斗が不思議そうにりせをのぞき込むと、彼女はなにか思いついたように唇の端をつり上げた。直斗にはそれが彼女が悪戯を思いついたときにする表情だと知っていた。
なにを考えたか、チョコを手にとると一つを口に入れ……いや、唇にくわえ、直斗のほうに向き直った。
「ん」
その一文字に『食べて』と促されているのを理解して、直斗は当然顔を赤らめ難しい顔をする。
「……さっきの謝罪は形だけですか、りせさん」
彼女は落とさないように上品に笑うばかりだ。
観念して、直斗もチョコを唇で受け取る。柔らかい皮膚と皮膚が触れあうだけだったが、その一瞬に緊張が全身の神経を瞬時に麻痺させる。
甘かった口内はあっという間に苦いチョコレートで占領された。しかし直斗には味覚なんて顔に集中する熱でまったく感じられない。
「おいしい?」
「……味がわからないです」
あまり毒づくこともできずすぐに飲み込んだ。
「顔真っ赤〜」と頬をつついてくるりせに仕返しをしたくなって、隙をみてチョコを拝借すると口に含んでそのまま口づけを交わす。
舌と舌が絡み合って、苦いチョコが熱にとかされ互いの口のなかに広がる。
鼻に抜ける、苦みとカカオの香り。それと行為による甘さに目眩がした。
結局しかけた直斗から切り上げて、その行為もすぐに終わる。
「……直斗くん、その顔は反則」
「知りませんよそんなの」
「自分からやっといて可愛すぎ」
「うるさいうるさい」
「大好きだよ」
そう小さく囁くと両腕で力いっぱい抱きしめてくる。頬に触れる赤茶色の長い髪からチョコレートとは違った甘い香りがした。
「……僕もあなたが好きです」
直斗も噛みしめるように返した。
今日という日がいつか思い出になるまで僕を、私を、どうか傍らにおいて