まぁ成績学年内順位一桁の常連で生活面でもなんの問題もなかった生徒が、二桁後半にガクンと成績を落とし授業中は毎日居眠り……なんて生活態度になったら当たり前の措置と言えるだろう。担任を責めるつもりはない。親に話したところでふたりは「すべて本人に任せてあるので」みたいなこと言ったに違いないだろうし。
突き放した言い方に聞こええるかもしれないが、ふたりだって無関心でいようとしているわけじゃなくて。その証拠に俺が帰宅してすぐ母さんが帰ってきた。無理して仕事を打ち切ってきたんだろう、たくさんの書類が挟まれたファイルを二冊抱えていた。
ただいま、ひさしぶりに三人でお夕飯食べようと思って、お父さんももう少ししたら帰ってくるはずだから、亮はなに食べたい?
母さんが笑う。
俺は、笑えただろうか。
ごめん これから友達んところに勉強教えてもらいにいくんだ 最近点数落ちただろ 難しくってさ 次でどうにか巻き返さなきゃだから ふたりで食べて。いってきます。
早口でまくしたてて、家を出た。母さんが不安を底に秘めた目で俺を見つめていたが無視だ。
母さんと父さんの気遣い、想い、全部、全部、全部、無視した。
ふたりはけして言わないだろうけど、もし、もしも。俺がやってるネットゲームについてとやかく言った瞬間。
俺が俺でなくなる気がする。醜悪な感情がはちきれて、ふたりを傷つける。
だからログインする時間を割いてでも、家から出ていたかった。
電車に乗り、通学中にホームしか見たことない駅で降りた。人通りは少なく、野良の犬がふらっと現れては闇に消えていく、そんな寂れたビル街をただ歩いた。外は春先だがとても冷えていてネカフェでもあればすぐさま入ってしまっていたかもしれないが、残念ながら看板に照明の点いた店は風俗店や居酒屋ぐらいしかない。俺はひたすら歩き、ビルとビルの間の行き止まりででやっと立ち尽くした。
ビル風が強く吹き荒むなか粗大ゴミが不法投棄され、ガラクタが積み重なってバリケードのように道を塞いでいる。左右は明かり一つ点いていないマンションと、曇りガラスがほぼ全部割られた小さな工場。トタンなどで壁が作られていてそこらじゅう穴だらけのせいか、月明かりがうっすらとこちらまで暗がりを照らす。
俺みたいだ、と思った。この粗大ゴミは俺みたいだ。
行き着く場所まで行き着き、このほのかな希望の光にすがってとどまっている。どうすることもできなくて、ただ毎日をどうにか過ごす。
ガンッ――無意識に拳を手短にあったロッカーに叩きつけた。
痛い。
どうすればいいかわからない。
俺の感情を荒立てるのは
ここから抜け出したい。
心は冷えていてどこまでも空虚なのにあの世界だけは俺を煽る。
動けない。
そんなんじゃダメだ。
俺は強くならないといけない。
なのに、俺は親に真っ向からぶつかることからすら逃げ出す臆病者。
不安と怒りと悲しみと疑問……負の感情がすべて入り混ざって俺の内面をグチャグチャにかき乱す。唇を噛み締めた。そうでもしないと、ここでみっともなく泣き出してしまう。
冷えた空気が俺を痛みつけるなか――唐突に温もりが灯った。
思わず身がすくんで、振り向く。そこにいたのは、俺と同じくらいの背丈で肩に掛かるほどの長さ、落ち着いた茶色の髪の女。
……女、だと思う。服装も顔立ちも中性的すぎて正直混乱する頭では確信が持てない。そいつが俺の手を掴んでいた。いや掴んだというより握ったというのが正しい。優しくも力強いその手に導かれて、今いた細い道を引き返して抜ける。俺はされるがままその女が風を受けてなびく髪と凛とした横顔を唖然と見つめるだけだった。大きな道にでて、やっと意識が覚醒。腕を振り払った。
女は手を宙に数秒さまよわして、下ろす。
「なんだよ、お前……」
「……別に。あの工場、ここらへんの不良グループのたまり場だから危ないと思っただけ」
声はそれなりに高い。やっぱり女か、と思い直し「そんな危ないところの近くを女が夜ほっつき歩いてんじゃねぇよ」と吐き捨てた。女はなにも言わなかった。ただ俺を見ている。その視線がやけに気になった。同じ学校の生徒ではないはずだ。名前は知らずとも顔だけはだいたい覚えている自負がある。それとも、どこかで会ったことがあっただろうか。
「……なんだよ」
「……いや……」
そう言いよどんでから「猫みたい」と呟いた。一瞬遅れて夜中というのも忘れて俺は叫ぶ。
「はぁッ!?」
「警戒心剥き出しの、野良猫」
「お前っ……」
誰だって知らない奴にいきなり接触されたら交友的にコミュニケーションをはかろうなんてしないだろう。罵倒しようとする言葉を飲み込んで、きびすを返した。関わりたくないと思ったからだ。
危ない人間には見えない、ただこいつといると感情の波が荒ぶった。なんだか不安定に心がざわめく。言葉にならないなにかが胸のなかで渦巻いて落ち着かない。あの世界だけが俺を揺さぶったはずなのに、なぜだ。混乱する。
だから俺はこの場から逃げようとした。
「待って」
無視しようとしたのに、身体は勝手に止まる。意味が分からない。自分になにが起きたのか理解の範疇を越えた。いつもの無表情も、得意の作り笑いもできずに振り返る。――今の俺は変に歪んだ顔をしているに違いない。
「……」
「……」
風が無言のふたりの間を撫でて抜けていく。女は言葉を続けるために口を開くか開くまいか悩んでいるように視線を泳がす。そして口を一直線に閉ざして、持っていた手提げ袋からなにか取り出すと近づいてきた。俺は動けない。
「やっぱ、なんでもない」
目の前に立ってそういいつつ、俺の首になにか巻きつけた。ふっと外気から守られたそこは温もりを孕んでしっとりなじみ肌と一体になる。毛糸のマフラーだった。
「もう時期はずれてるけど寒いよりマシになるよ。試作品で、もったいないから使ってただけだから、あとで捨てて」
そのまま、彼女はもう俺を一度も見ることなく背を向けて行ってしまった。ふいに止めようと思った自分がいて――しかし止めようとしたところで何になる?また無言が続くだけだ。そう思い立って、俺も反対方向へ走り出す。
白い毛糸に銀色のラメが織り込まれた、色で受ける印象と違ってとても優しい暖かさが、俺は心の片隅に刻まれた。
――それはもう半年ほど前にあったの出来事なのに、今でも昨日のことのように思い出せる。
今、季節は夏真っ盛り。あの頃の寒さが恋しくなるような天候が続いている。そんななか俺は病院のなかを全力疾走して、目標をとらえると腕を伸ばした。
志乃が意識を回復して、見舞いに来て。もう帰ろうと病室の窓辺から外を見たそこに人影はあった。病室は三階だから、それなりに小さい姿しかとらえられなかったのだが、カメラのピントが瞬間的に合うように、それをしっかり確認した自分。
気づいたときには志乃に一声もかけず病室を飛び出していた。すれ違った看護師に注意されたにも関わらず俺は走る。そして後ろ姿が見えて手を伸ばした。掴んだ手は、真っ白で細くて、眩しい。
目が合う。確かにあのときの、彼女だ。
「……」
「……」
今までの経緯終了。
そこで俺は息を整えるなかで汗で冷えていく身体にともない冴える脳みそで失態に気がついていた。彼女は俺がだれかなんて覚えていないかもしれない。というかそれが普通だろう。あの時一回、しかも夜中に明かりの乏しいビルの影で向かい合って一言二言しゃべっただけの、無愛想な男のことなど、覚えてるわけがない。そんな見も知らないヤツに腕をつかまえれたら、痴漢扱いされても文句は言えないだろう。俺もあのとき、吃驚したし。驚いた表情のまま、俺を見つめる瞳。次の言葉が叫びだったりしたらどうしよう、といやな汗が吹き出した。しかしそれは杞憂に終わる。
「……あのときの……」
ぽつり、と発せられた言葉に膝が折れた――まさか覚えられているとは。安心する反面、そんなに印象深いほど最悪な態度を取っていたのか、と自己嫌悪しつつ大きく息を吸って吐いて、顔を上げる。
「……」
「……」
次の言葉は続かなかった。ただ姿が見えたから追ってきただけ、という無計画さに頭を抱えたくなるがどうしようもない。
ひさしぶり、なんて言葉をかけるほど親しい間柄ではない。こんにちは、が打倒なのだろうかと悩む間に無言は深くなって言い出しづらい。
「あっれ、杏……その子どうしたの?」
彼女は声の方へ視線を向けたので、俺も習ってしまう。
そこにいたのは色黒の、彼女より活発な印象を受ける二十代ほどの女性だ。ペットボトルを二本持っていて飲み物を買いに行っていたのだろう、彼女の連れということはすぐわかった。
「瑠香……あの、前言ってた子」
「ん? 前っていつの?」
「二月中旬ぐらい。ほら、夜に……」
「んーんーんー?…………あぁー、思い出した」
ビシッと俺を指さすとその色黒の女性はハッキリと告げた。
「杏が逆ナンした男の子っ!」
……思わず狐に摘まれた顔になったのは仕方がないだろう。……逆ナン?
「ち、ちがうよっ……そんなことしてない……っ!」
「え、だって手握ったんでしょ? 普段はなかなか男に近づかない・話せない杏がねぇ」
「そうじゃなくて……ッ! も、もういい! 瑠香は先行ってて!!」
ごめんごめんおじゃま虫は消えるよー、と手を軽くふり病院内に入っていく。彼女はまだなにか言いたそうだったが一息ついて、俺に向き直った。視線を合わせるためか地面に腰を付けないようにして座る。
「……ごめん……ああやって茶化したいだけだから」
「……いや、べつに」
それについて気にすることはとくにない、だけど他に気になったことがある。『普段はなかなか男に近づかない・話せない杏がねぇ』と先ほどの人は言った。なら、あのとき。
「なんで」
「……?」
「なんで、あのとき……俺に話しかけたわけ?」
見も知らない他人の、しかも夜中徘徊するような男に、だ。なぜ?普通の人だってそんなやつ関わろうなんて考えない。人が嫌いならなおさらではないか。
「それは……」
「……」
「……じゃ、キミはあそこで何をしてたの?」
言葉を待っても、彼女は俺を見つめて逆に問いかける。
俺はあそこで……――?
それは、あそこの粗大ゴミが俺みたいだから? ひたすら歩いて行きづまったから? いや、今思えば……今だからこそ思えば、
「助けを、求めてた」
そう、今思うと俺は前にもあんな場所で立ち尽くしていた気がするのだ――いうところのデジャヴュというやつなんだろう。俺はあんなような場所で自分の行いを見つめ直し、動けずにいた。そこに誰かが手を伸ばしてくれたのだ――それだけで救われた、そんな既視感があった。だからあんな場所を見つけ、立ち尽くし心のどこかで助けを求めた。そんな気がする。
「あのとき、行きづまってたから……いろいろと」
「ふぅん……じゃ今はもう、大丈夫なんだ」
「まぁ、一応」
俺の答えに、彼女は深くは聞こうとしない。興味がないわけではなくてただ触れてはいけないと読んでくれたのだろう。次は俺の番だ。
「で、アンタは?」
「……キミに言わなきゃいけない気がしたんだ」
「何を?」
「……おかしいヤツと思うよ、きっと」
「俺も大概、へんなヤツだよ」
あんな場所で立ち尽くしたり、一回話しただけの人のもとに迷惑省みず駈けたり。ほんとへんなヤツ。そういうと軽く納得したのか、意を決して立ち上がり……ちょっとまだ目に迷いがあったが、手を俺に差し出した。
「……お、」
かすれた声、少し赤らんだ頬、少し困ったような表情。
とくん、と俺の心臓が大きくゆっくり跳ねた。
「……『お友だちになろうよ』……」
とくん、とくん、とくん。
不思議な感覚が俺の思考を柔らかい布で包み込むようにあの時のマフラーのように温かくて緩やかな心持ちにさせる。なんだろう、不快じゃないけどなんだか嬉しいような、気恥ずかしいような。ほんと、俺はおかしくなったようだ。
「……新手のナンパ?」
「!!」
「冗談、冗談」
そんな言葉でしか今の自分の気持ちを誤魔化せなくて、差し出された手を取る。掴んだ手は本当に真っ白で細くて、眩しい。弱々しいその手にしっかりと頼って立ち上がる。久しぶりに、素のままで冗談言って、ありのままに笑えた。
「で」
「……?」
「なってくれるのか」
「……」
俺のともだち。
(彼女は こくん、と頷く)(不思議な運命を経て、俺と彼女は友だちになった)