俺は走っていた。
周囲は霧がかかっていて、視界が悪い。そのなかをがむしゃらに走っていた。心に居座る恐怖からは逃れようがないのに、ただ夢中で走っていた。
誰もいない、恐怖。
笑い声が聞こえた気がして、振り返る。さっきまで誰もいなかったのに、手の届くほど近い場所に先生がいた。
先生はあのよりしろであるブサイクな招き猫の姿ではなく、美しい白銀の毛並みを優雅になびかせた獣の姿でたたずんでいる。
先生がなにか言う。まったくなにを言っているが聞こえなかったけど、耳あたりのいい、澄んだあの声が俺のなかで響いた気がして、恐怖が沈んでいく。
俺たちは対峙していて、見据えた視線は交錯し、俺が声にならない言葉を呟くと。
先生は、
俺に喰らいついてきた。
「っ、」
飛び起きて、頭がくらくらした。いつもの部屋。いつもの布団。窓から見える風景もいつも通りで。違うといえば、醒めて飛び起きても視界を包む闇はなく、穏やかな雲が泳ぐ青空が広がっていることぐらいだ。
顔が熱い。そのくせ、身体を軋ませるような震えがきた。寒い。
そこで思い出す。高熱が出て学校を休んだった。喉に詰まっていた息をゆっくり吐くと、喉がヒュゥヒュゥと鳴る。「ニャンコ先生」と用心棒の名を呼ぼうとしたが、痰が絡まりうまく声が出ない。
「夏目、やっと起きたか。まったく、ひ弱なもやしはこれだから面倒なのだ」
名は呼べなかったが、先生は襖を開けて姿を見せた。軽く咳払いをしてみるとそのまま喉に響くような咳がなだれ込んできた。器官が痛くなるぐらい咳き込んでしゃべるのを諦める。そのまま布団をかけ直し横になった。
「中級たちが見舞いに来ようとしたが、追っ払っといてやったぞ。騒がれては迷惑だからな。感謝しろ。七辻屋のまんじゅうでいいぞ」
そう先生が言いながら布団の中に潜り込んできた。中級たちに悪気はないのだろうが、なにかしら騒がしくなることは確かだ。今は相手できる体力がないので、ありがたいことだった。
先生をギュッと抱きしめつつ、できるだけ足を曲げて胎児のように丸くなる。まだ寒いが、誰かが手の届く場所にいてくれているという安心感だけでも、心持ちはまったく違ってくる。それが酔いどれ妖のニャンコ先生でも、だ。
瞼が重くなり始めてから、ふと考えた。
またあの夢をみたらどうしようか、と。数度、自分から妖、もしくは逆に――正確には夢で見た昔の記憶だったのだが――そういったものが流れ込むということがあった。不安は妖をひきつける。その隙に反応して、寝ぼけた先生にも何度か食われかけたことがあった。
……先ほど見た光景を思い出す。
先生に喰われる、夢。
近くにあるカバンに腕を伸ばして、中身を探る。起き上がる気力もないので手の感覚に頼って、筆箱と適当な科目のノートを取り出す。白紙のページに文字を書くと、先生に見せた。
『俺って、美味しそうに見える?』
先生は最初こそ不思議そうな目でこっちを見ていたが、会話を試みようとしているとわかってか、それとも唐突な内容に呆れてなのか、はなで笑った。
「皮と骨とちょっとの筋しかないようなひょろひょろのお前でも、妖からしたら人間。美味そうもなにも、みんな同じだ。ただ見えるということ、友人帳を持っているということ、そして弱い心の隙を感じ、寄ってくる。だたそれだけだ」
だから友人帳をさっさと渡してしまえ、とお決まりのように付け加える先生。
そんなことしたら、先生は俺の傍にいてくれなくなるじゃないか。
そんなふうに重い頭で考えつつ、もう一度文字を綴る。
『歳をとっても、同じ?』
「……そりゃあ、老いぼれたジジイより若い人間を食いたがるやつのほうが多いかもな」とニャンコ先生は頷く。
『先生は俺のこと、食べたい?』
「……」
先生は黙った。
自分でもなんでこんなこと言ってるんだろう、と思う。
夢で見たから?……いや、考えないようにしていたけど、前から漠然と想いはあった。
先生は俺の最期を看取ってくれる。友人帳は俺が死んでから先生に譲る約束だから、結果的にはそうなるはずだ。でも俺は先生の最期にはきっといられない。……というより、いたく、ない。
人間の一生は短いけど、その短い間に誰かを失うということは、ツラいから。そんな思い、できればしたくないから。
自分勝手だなと自分に呆れる。妖にだって、悲しいとか、ツラいとか、そういう感情あるはずなのに。今まで関わってきた妖のそれに触れてきたはずなのに。俺には、先生の最期を看取るなんて、耐えられそうにない。
死後に、友人帳を渡すという約束は果たすつもりだ。
でも、それで終わってしまうのは寂しい。人間は妖の先生からしたらすぐ死んでしまうだろうから、覚えてて欲しいとか、そんなこと言うつもりはないけど。
もし、もしも先生が俺のこと、美味そうな人間とか、そんなことででもいいから――それこそレイコさんのように――記憶の片隅にでも置いてくれるなら、
「おれを、たべてもいいよ」
そうやって最期を看れない変わりに、俺が死んだら、好きにしていいよ。
(先生は俺を見てた。かすれたしわがれ声だったけれど聞こえていたとは思う。しかしなにも言わず黙ったままだった)(もう体力の限界で、瞼は自然と落ちてくる)
(もし、このまま目が覚めなかったら、俺は先生に喰われたってことだろうか)
(それはそれでいいかもしれない、そう内心軽く笑って眠りに身を任せた)