「じゃあね、司〜」
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
一足先に落ちていく仲間たちに手をふって、久しぶりに訪れた世界を少し見回し、大きく息を吸い込む。それはリアルの部屋のものだけど、世界の空気を肺いっぱいに吸い込んだような満足感があった。
昔は逃げ場所だったこの世界。今は少し違うけど『思い入れ』のある場所というのに変わりはない。
そこで一人ぽつんと立つ、彼に気がつく。
「……楚良?」
彼もぼんやりと、視界をさまよわせていた。でも纏う雰囲気が何か違う。司が懐かしむように世界に向ける目とは、明らかに。その姿はまるで戸惑い迷う幼子のよう。
「……司くん」
「どうかした? ……落ちないの?」
無言。彼らしくない、と司は困惑する。親しいと言うほどそこまで話したこともない。けれどもそれなりには彼のことを知っている。リアルをいろいろと想像させてしまうほどロールが上手くて、子どもじみた言葉づかいのなかに刃物のように堅く冷徹な光を持っている、そんな人物。
そこにスッと現れたもうひとりの人影。
「かえりなさい」
「え?」
振り返ればそこにはこの違法サーバー・ネットスラムの白き女王、ヘルバの姿。
「お前のかえるべき場所があるでしょ?」
何か含んだ、笑み。
楚良はそれを向けられ唇を噛みしめて、いつもみたいに何かおふざけでも、悪意で切り返すわけでもなく……ただ俯いた。司にはわけが分からず、二人を交互に見回すしかない。
「……ぃ……」
楚良が、呻いた。思わず司は目を見張り耳を澄ます。
「……ぃ…………だ」
「……」
「……いや……だ……かえりたく、……ない」
苦悩に染め絞り出されたその小さな小さな叫びが、司の脳を静かに、しかし大きく確かに揺さぶった。
彼の強く握りしめた拳に触れる。
びくりと身体を震わす反応して顔を上げた楚良の目を見つめて、切り出す。
「帰りたくないなら、僕まだいられるし……付き合う」
「……なんで?」
なんで、って。司は理由を聞かれるなんて思ってもみなかった。が、すんなりと、当たり前のように……いや当たり前だからこそ、その理由は口からこぼれる。
「友だち、でしょ」
ほとんど言葉も交わしたことはなかった。自他ともに警戒心の強い、人見知りの激しい人間……というのが司というキャラなのに、と少しだけ不思議に思いながらも、そんな宣言ができる自分に内心驚いていた。
楚良も楚良で予想もしなかったのだろう。ぽかんと口を半開きにして数秒、ようやく彼らしい猫のように目を薄くし笑って、大きく頷いた。
「うんッ!」
手を繋いだまま転送。
リングに視界が遮られていくなか、女王がどことなく憐れみをもって笑っていたのに、司は気がついかないふりをした。
「つっかさく〜ん! は〜や〜くぅ!」
「ちょっと楚良っ、双剣士と呪紋使いのスピードを一緒にしないでよ……!」
ずんずんダンジョンを降っては魔法陣を展開させ、ほぼ一人で片づけていく楚良。補助なんていらない。もとより彼はソロプレイヤーで退き際は心得てるし、自分にできない無茶はしないのだ。少しだけHPが削られたら回復呪紋をかけるだけで充分だった。最階層のアイテムを手に入れたり、どうせだからと今行われているイベントに参加してみたり、楚良のPCの名前由来などを聞いて雑談したり。
楽しい時間。こうやってザ・ワールドに触れ合えることが、素直に司には嬉しかった。
そして時間は過ぎていく。
さすがにそろそろ寮長が見回りにくる時間で、それに加えて瞼がひどく重くなってきた。
「……司くん」
「ん、ん? なに?」
「眠たいのん?」
「……うん、そろそろ落ちないと、かな」
「……そっかぁ」
目に見えてしょんぼりしてしまった彼。また彼らしくない彼を見るのは心がキリキリ痛む。
どうしよう。もっと一緒にいたい。
そんな気持ちがこみ上げてきて板挟み状態だった。
「……司くんはさー」
「?」
「ここに、逃げてきてたんだよね」
「……」
翳りのある、すがりつかれるような視線に貫かれて何かが思い出される。――彼の目に、見覚えがあった。
そう、僕はこの世界にいるとき、同じ目をしていたんだ。
思考をゆっくりと巡らす。司には、ザ・ワールドが唯一の逃げ場所だった。いつの日かここでも逃げなければいけなかったけど……でもここが安息の地だった。
そう『だった』、のだ。
「逃げてたけど、ここを居場所にしちゃいけなかった。ここに居場所があってもいいけど、戻らなきゃいけなかった」
それは自分に言い聞かせた言葉でもある、と過去を振り返り、寂寥感が胸を撫でた。それでも心はもう決まっていて迷いは生まれなかった。
「……『戻らなきゃいけなかった』……」
そんな言葉をオウム返しに呟いて、楚良は遠くを見た。どこまでも遠い視線。その芽だけは、司に迷いを植え付ける。
「……結局、ぼくちんもかえらなきゃいけないんだ」
「……楚良……?」
寂しそうな声色が怖くなって名前を呼ぶ。今にも消え入ってしまいそうなほど儚い雰囲気を醸し出している彼が怖いのだ。
そんな予感が的中したとでもいえるのか――彼の身体が光に包まれた。
「!? 楚良っ!!」
驚いてとっさに手をのばした。腕に触れようとして指がそこにあるはずの彼を掴むことはできなかった。輪郭がぼやけ、徐々に光が収束していく。
ばいばい、司くん。
声は聞こえななっかったが、最後に笑う彼はそう囁いたように聞こえた。光は指の隙間を抜けて、するりするりとどこへともなく宙へと消えていった。残されたのは司ただひとり。
思考が完全に停止してしまっていたが、気がついてすぐさまショートメールを送ろうとする。なにがあったの、どうしたの?問いつめようと焦るものの、メンバーアドレス自体がなくなっていて愕然とするしかなくなった。楚良というPCが、先ほどの目の前で起こった通り跡形もなく消えてしまったのだ。
「彼はかえったのね」
自分以外の声に弾かれたように振り返る。そこにいたのは白き女王。いつの間にか、どこからともなくまた彼女は現れた。
「かえった……?」
「そう――還ったの。世界に、ね」
先っきから驚いてばかっかりだ。楚良が……ログアウトしたのではなく、世界に還った? ザ・ワールドに? 彼はAIだったの?
困惑する司の表情を悟ってか、ヘルバは口元に微笑を覗かせる。
「彼はリアルに戻れなかった。帰りたくても帰れなかった。彼はもうリアルの居場所を無くしたのか……それとも、リアルが彼へとたどり着けなかったのか」
「……よくわからないよ」
「理解しようとしなくてもいい。真実などもう、誰にも正確にわからないのだから。ただ、お前の知る
女王は司を指差す、その胸をまっすぐと。ここからの道を標すように、近くても遠く果てなき道へと導くように。
「その『真実』も夜を越えることができる……そう、思わないか?」
そう言うと腰を折り、滑らかな動作で転送リングに包まれて行ってしまった。また残された司は、胸に手を置いて……ひとり考える。
二度も助けてくれた、楚良。
事件後姿を消してしまった、楚良。
宴の最中に悲しそうな背中をしていた、楚良。
還りたくないとだだをこねて一緒に遊んだときの笑顔の、楚良。
君はここに、いた。確かにいたんだ。
それが僕の知る『真実』。
それを僕は知っていればいいんだろうか。そうすることが楚良の為になるんだろうか。わからない。
だけど、もうそれ以外の真実も、わからないのだ。そうするしかない。楚良はいた、確かにここにいた。この世界に、みんなの目の前に、僕の隣に。
……でも、でもさ、
司は大きく、哀惜の念を含ませた息をついて……今まで彼がいた場所を拗ねたように睨みつけて、呟く。
そのまま消えちゃうなんて、ヒドいよ。
(いつかの「ありがとう」も)(僕からの「バイバイ」も)(言えないままじゃないか)