*作中、主人公は女性です。前回の続き。
『根気:タフガイ』『勇気:意気地なし』なステータスで、だいぶ卑屈な性格。足立さんと恋人ではないが肉体関係。『2011年』3周分の記憶有り。苦手な方は観覧注意。
結果として、山野真由美が吊るされることはなかった。
つまりこの『2011年』では小西早紀はその死体を目撃することもなく、久保美津雄は模倣で人を殺めることはなく、諸岡金四郎がその犠牲として生涯を終えることはなく、生田目太郎は善意の犯行に及ぶことはなく、つまるところこの片田舎の八十稲羽市で怪奇連続殺人などという無粋な事件が起こることなく。
足立透は、私の手の届く場所にいる。
「物理的な距離だけど」
この人の心に私が触れることは、きっとないのだから。
隣で眠るその人の横顔を眺め呟きつつ、だるい身体に鞭を打ち起き上った。ベッドの下に落ちた衣服を素早くかき集め、脱衣所へ。洗面台にある鏡に映った自分に、思わず顔が熱くなる。首から胸にかけて紅い鬱血が散らばっていて昨晩の情事を思いだした。
足立さんの馬鹿。服着ても見えそうな位置にまで……そんなこと思いつつも心の底では嬉しさを感じる自分がいて、さらに頭を抱えたい気分だ。あの人のくれるものすべてがかけがえのない大切なものに思うなんて――自分こそ大馬鹿者じゃないか。
そんな甘い感覚に酔っていると覚めた後には、どん底に突き落とされるかのような最悪が待っていることを知っているのに、どうしようもない。
一度息を吐いて、風呂場へ。髪をまとめてから、熱いシャワーを軽く浴びていると昨日の足立さんを思いだした。表情、息遣い、声、指先が身体をなぞり触れる体温――思いだせば思いだすほど身体は熱くなるのに、芯のほうは凍えてる。それを意識したら、死にたくなってきた。
「大丈夫」
苦しみを吐きだすようにもう一度息をひとつ。大丈夫。私はなんともない。足立さんがそこにいるのに、これ以上望んだらバチが当たる。
お風呂から出て着替えると朝食の準備をした。まだ朝方の3時で外は暗い。簡単に温めて食べれるようなものを作り、ラップをして冷蔵庫に入れた。そういえば前の『2011年』でのクセで朝食作ってしまい、準備が終わってから「余計なことをしただろうか」と心配になったことが先日あった。翌日になにか言われるわけでもなかったので習慣化してしまっているが、足立さんはどう思っているのだろう。……聞けるわけはないのだが。手ぶらに近い荷物をまとめて、アパートの一室を出る。鍵をかけて郵便入れに落とした。
出ていくときにメモやメールといった目に見えるものは残さない。足立さんがどうとでも誤魔化せばなかったことになる、そんな関係なのだ。私たちは。
ただ身体を重ねるだけ。それ以上は望まない。望んじゃいけない。
いつも足立さんの家へ行く時は叔父さんが泊まり込みや出張の場合がほとんどで、菜々子を寝かしつけてから外に出る。叔父さんがいても足立さんと時間があえばバイトのふりをして家を出る場合もある。『あの事件』が起きない八十稲羽はそれなりに平和なので、会える時間が限られてしまうからだ。怪しまれないよう遅くなりすぎない時間に帰らないといけないが、仕方がない。
できるだけ誰の目にもとまらないように注意する。田舎のネットワークは恐ろしい。現職の刑事の家に入り浸る女子高生なんてネタはどこまでも広がってしまうだろう。自分の保身に走ってるとこもあるが、足立さんに迷惑はかけたくない。それも本音だ。
でも、すべて吐きだしてしまいたい気持ちを誰かに聞いてほしいときも、ある。
そんなときはいつもの――以前の『2011年』で使っていた――大型テレビの前に来てしまう。
最近よくあることだが、今すぐにでもテレビのなかに入ってしまいたいとそんな衝動が襲ってくるのだ。この『2011年』ではクマにすら会っていないから、たぶん一度入れば出ることはできない。誰もテレビのなかに落とされていないから、クマが人の匂いを嗅ぎつけて住処から出てくる可能性も薄いし、会うまでの間にシャドウにやられる可能性だって捨てきれない。背中を預けられる仲間はいないのだ。そんな状態で彷徨って、もしあっちの霧が晴れれば翌日、私の死体はこちらに吊るされるだろう。
そうしたら足立さんは、どう思うかな。
画面に触れるか触れないかギリギリの距離で、やめた。手を強く握って胸に抱え込む。なに期待してんだと吐き捨てたくてもできない。ヒドい欲求だ。足立さんが私のことどう思っているか知りたいなんて。ただの身体だけの、遊び相手。いや相手じゃなくて、物かも。……玩具として扱ってくれれば苦しまなくても済むのに。
「お客様、どうかしましたか……って、あれ? お前……」
身体が跳ねた。テレビ売り場で誰かに話しかけられるなんて稀なことだから。しかもその声が知ってる人物の声だから、なお焦らずにはいられない。
「……花村」
「おいおい顔真っ青じゃん。平気?」
前の『2011年』と生活パターンは一緒だ。学校に行き勉学に励んで、部活動に積極的に参加し、バイトに精を出す。違うのは、お金にしても使うものがないから貯蓄するぐらいしかできないことと、特別捜査隊の仲間とはあまりつるんでいないということだろう。同じクラスだし席も近い陽介・千枝・雪子とはそれなりに交流はあるが、一緒にお弁当を食べたり休日を過ごしたりなんてこともない。ただのクラスメイトだ。完二は未だ暴れ回っているようだし、りせはそろそろ芸能活動の休止を発表する頃。直斗に関しては八十稲羽市の地名を知ることすらきっとないだろう。
「……大丈夫、ちょっと貧血気味なだけ」
「そうか? もし休むなら屋上にフードコートあるから風当たってけよ。子ども多いからうるさいかもしれないけど」
「……ごめん、私高いところダメなんだ」
完全に嘘だ。フードコートは思い出が多く、この『2011年』では近づいてすらいない。そんなこと言えば、この町は私にとって3年とちょっとの濃密な思い出ばかりだけど。
「へぇ、意外。お前にも苦手なものあるんだ」
「……人をなんだと思ってるのさ」
「勉強もできるし、運動神経も抜群、それに加えてバイト5つと部活2つ掛け持ちしてんだろ? これを超人と言わずなんと言うよ。お前にオフって概念あるの?」
「暇してるの嫌いなだけ」いろいろ考えてしまうから、忙しくしていたいだけだけど。以前の『2011年』でもこなしていたノルマだから別段難しいことではない。
「そういや最近、鮫川のヌシを釣ったってパートのおばちゃんたちの噂で聞いたけどホントか?」
「……え、いや……というかそんなことまで噂になるんだ……」
前の『2011年』なら確かにキツネの頼みで絵馬に描かれた願い事を叶えていたが、この『2011年』ではまだ釣ってはいない。つい最近、規格外なほど大きいオオミズウオなら釣り上げたが、それをヌシと勘違いされたのだろうか。ヌシを見たことがない人にとっては巨大オオミズウオでもヌシに見えてしまうかもしれない。いやそんなことより雨の日の釣りが噂となって広まっていることを考えるとため息が出た。足立さんとの関係はもっと慎重かつ神経質に配慮しなければいけないと改めて再認識する。
そんな内心をなにも知らず陽介は「田舎を甘くみんなよー?」と気さくに笑った。その笑みは心地よく、しかし胸に確かな痛みをもって突き刺る。
んじゃまだ仕事あるから、と告げると陽介は去って行った。
そんな後ろ姿を見送ってから私もぼとぼととその場を離れる。テレビを意識してできるだけ見ないようにしたのは、今の心境ではすぐにでも飛びこんでしまい衝動を抑えきれそうになかったから。
「……だからってここに来てなんになる」
家に帰るつもりでたどり着いたのは足立さんの住むアパートの部屋の前だった。無意識にここまできてしまうなんて、まったくどうしようもない。今日のスケジュールを思いだそうとする。たぶん、出かけていなければ中にいるはずだった。薄汚れたその扉に触れる。冷たくてほこりっぽい手触り。ノックしてしまおうか……なんて、できるわけない。
……正直、今日陽介に声をかけられたのは奇跡だと思った。
私はみんなに一線を引いて接している。だって、仕方がないじゃない。私にはみんなと仲が良かった記憶があるが、みんなにはないのだ。足立さんを追いかけていた仲間。あのころの気持ちを抱え込んだまま、親しく話せるほど私は器用でもなかった。私の中に色濃く存在する思い出はとても苦い。
私は足立さんの犯行を阻止できた。でも、誰にも言えない。みんなと仲良くなれば、話してしまいそうだった。理解してもらえるはずなんてないのに。
だからできるだけ、勉強や部活やバイトに精を出した。しかしどんどん自分のなかから何かが欠けていくのがわかる。ただ虚しくなっていく自分を感じて、心が冷めていく。
もしも、この『2011年』を終えた時。また世界が巡って『2011年』になったら……私は足立さんを助けることを選択できる自信がないのだ。
事件が起きろとは思っていない。誰かが死んで足立さんが罪を犯して、なんてもう真っ平だ。あの人を失いたくないという確固たる意志はある。しかし仲間<特別捜査隊>と事件を追っていた1年間はツライこと、悲しいこと、いろいろあったがすべてにおいて輝かしかった。
ひとつひとつが大切で、貴重な体験で、その日々が忘れられないなんて――調子が良すぎる。結局、私はなにも捨きれていないのだ。自分がこんなにも強欲だったなんて知らずに生きて死にたかったと心底思う。
唯一勝ち取った足立さんとの関係。これだけは手放したくなくて、依存している。身体を重ねているとき、あの人は優しい。泣けるほどに温かい。
あの人の傍で小さな子どものように泣けたら、どれだけ救われるだろう。
――そんなどうしようもないことを考えて、舌打ちした。帰ろうと思うもここから動きたくなくてそのままで目を瞑ると、ドアの向こうで動く気配に気づいた。思わず立ち退くけば。
出てきたのは、当然ながら住人である足立さんだった。
素早く部屋の中へと連れ込まれた私は、足立さんになんと言い訳しようか頭をフル活用させたが、絞り出す前に「あのさ、あんなところで棒立ちにされてるほうが目立つっての。さっさと入ってきてよね、まったく」なんてぶつくさ呟いている。
「……なんで、気づいたんですか」
「なんとなくくる気がしてた、って答えたら信じるわけ?」そう迷惑そうな声でも、不安に押しつぶされそうになっていた私には救いしかなくて。
その背中に思わず、体当たりするように抱きつく。後先なにも考えず、すがりついた。――そのまま一瞬止まった足立さんだったけど、そのあと引き剥がせる。その瞬間、自分でもわかるほど傷ついた顔をした。当たり前のことなのに。
馬鹿だな、身の程を弁えないからだ。怒らせてしまっただろうか。反射的に謝ろうとしたけど、すぐに腕をひかれて態勢が崩れる。
……前から抱きしめられたのだが、その行動が理解できなくて、思わず足立さんを見上げた。
「……なにしてるんですか」
「いやそれ僕のセリフじゃない? いきなりなんで抱きついてくるとかさ」
「……なんででしょう?」
「いいよ別に考えなくて」
呆れ顔の足立さんが視線をそらす。そっけない態度だけど、腕には力を少しこめられていて突き放されているわけではないとわかる。服越しの温もりはもどかしいようで心地良くて、目の奥が熱い。今すぐにでも涙腺が決壊してしまいそうだったから目をしばたたく。さっきは子どものように泣けたら、などと思ったが現実ではどうも感情にストップをかけてしまう。そんな自分は可愛くないと素直に思った。
「……はぁ」
「……えぇ、と、ごめんなさい」
「意味もわかってないのに謝るのやめたほうがいいよ。すごくウザい」
「……いや、私に関してのため息ってことはわかってますから」
「まぁそうだけど……いやホントにさ」
「はい?」
「胸ないよね」
ボソッと呟かれて思わずお腹をグーで殴りそうになった。それはどうにか理性で留まってみたものの、頭が足立さんの胸部を捉えた。背丈的にちょうど胸ぐらいなので頭突きが容易だったのだけど、考えるより手が出るとよく言うがこれはこれでどうなんだ自分と思いつつ、喉になにか詰まらせたみたいに咳込んで痛みに呻いてる足立さんはなぜか私を離そうとしないのでさらにわけがわからなくなる。「すみませんね……足立さん好みの胸じゃなくて」と嫌み吐き出してみるも、戸惑いが大きくて毒がしこめない。
「ゲホッゲホッ……胸以外にも、人形みたいに綺麗な顔してけっこう暴力女だし」その通りなのでなにも言えない。「女子高生っていう割には色気がないし。まるっきりガキだし」自覚があるのでなにも言い返せない。「そのくせ大人ぶってるのがイライラする」そんなこと何度だって思い悩んできたから反論できない。「もっと年相応な表情してないとさ、気持ち悪いんだよ」わかっていたことだけど、気持ち悪いと言い切られてしまえば声が喉を塞いで出てこない。「ガキはガキなりに、しょうもないことで悩んで、笑えっての」そして……足立さんの言おうとしていることがいよいよ掴めなくて、言葉を失うしかない。
「それで他人と馬鹿みたいに騒いでるのがお似合いなんだよ」
ねぇ、足立さん、なに言っているんですか。そんな気持ちを胸に顔を見上げると、視線をそらされた。「この人なりに私のこと、励まそうとしてるのだろうか」なんて勝手に解釈してしまいそうなので、早く否定してほしいのだけど。
「だいたい、なんでキミみたいな子を……」
「……?」
「……はぁ」
言葉の続きは紡がれることなく、ため息を最後に無言の間が続いた。居心地の悪い空気に、心地のいい熱が混ざり合って、ふたりを支配していた。
それを割って入ったヴゥーッっと重低音。ケータイのバイブだったが相手の心臓の音がハッキリと聞こえてくるほど静かだった室内では着信音が鳴らなくても大きく響く。それを察知してからの足立さんの行動は素早かった。さっと身を引いてなにもなかったような顔。温もりが遠ざかるのは少し寂しかったけど、そうも思い浸ってはいられない。ケータイは3コール以上反応しているようなので電話だとわかり、画面を確認すると『堂島遼太郎』の文字……叔父さんからだ。昼間に電話なんて珍しい。なにか嫌な予感がした。
「もしもし、叔父さん」
『ああ、今大丈夫か』
「うん。なに、どうかした?」
『実はな、菜々子が風邪ひいたようなんだ』
「えっ?!」
菜々子が風邪? 今朝の様子を思い出してみると、確かに少し元気がないような気がした。しかし前回はこんな時期に風邪をひいていたことなんてないから、あまり気に止めていなかった。
『熱が高いみたいで、すまないが様子を見てやってくれないか。俺もできるだけ早く帰るから』
「わ、わかりました……!」
職場からかけているのか、声の後ろでは電話のコール音や人の怒声が聞こえた。なにか新しい事件の通報でもあったのだろうか。早く帰ると言いつつも遅くなる可能性は充分にあり得る。
足立さんに菜々子の風邪を伝え、急に訪れたことを詫びると素早く身をひるがえした。あの家で風邪をひき、ひとりぼっちでは心細いはず。早く帰って菜々子の看病をしないと。
「ねぇ、今さ」
だが足立さんはまた私の腕をとっていた。さっきと同じ強い力でひかれてバランスが崩れかけたが、今度は足立さんの方へ倒れ込まずに済んで、顔だけを向ける。足立さんは無表情のまま問いかけた。
「行かないでって言ったらどうする?」
身体が、動かなくなった。ぽかん、と相手を見つめて、向かい合うと徐々に唇が戦慄いた。
なんで、そんなこと聞くんですか。……そう声を荒げてしまいそうだった。
そんな目で、そんな声で、そんな言葉、吐くんですか。ヘンな優しさばかりチラつかせて、簡単に抗えないってわかってやってるんですか。欲しい言葉はくれないくせに、私を惑わず言葉ばかりは与えてくれる。あなたはヒドい人だって知ってるけど、それはあんまりだ。
――などと泣きごと言えるわけもなく、困惑し声を出せずにいる私に「冗談だよ」と皮肉っぽさを持ったまま笑う足立さん。
「車出すよ」
「…………ぇ……えっ?」唐突な申し出に声が詰まってしまう。「それなら菜々子ちゃん、病院までいけるでしょ」車の鍵や財布を探しているのか部屋の中を巡回する足立さん。
「で、でも……っ」
「またあの時みたいに自転車でもかっ飛ばす気? あの自転車に二人乗りはできないことないだろうけど無理だよ、相手は病人の小学生だし」
「……」
確かに足立さんに迷惑はかけたくなったが、菜々子は早く医者に見せたほうがいい。あの子の苦しそうな姿は今まで――何度も重ねてきた『2011年』で嫌というほど見てきたせいだろうか、過剰に心配してしまっている節ある。しかし風邪だからと放置してしまうのは肺炎だって引き起こす可能性があるし、できるだけ早く手を打ちたかった。それを思えば、その皮肉交じりの申し入れを断る理由はない。「お願いできますか」と顔色を伺うように聞き返すと、無表情のままだったが頭をぽんぽんと優しく叩かれた。……ここまで優しい足立さんは、足立さんらしくない。
それにますますあなたを好きになってしまうから、困るじゃないか。
それから家に帰り、菜々子を病院まで連れていった。今は薬も飲んでぐっすり眠っている。帰ってきた叔父さんもホッとしたようだった。
「菜々子を病院まで連れて行ってくれてありがとうな」
足立も悪かったな、と家に上がっていた足立さんにも礼を言う叔父さん。「菜々子ちゃんのためなら当然ですよー」なんてへらへら笑っている。
「しっかし、お前らなんで一緒にいたんだ」
確かにそれは普通に思いつく疑問だろう。足立さんは数えるほどしかこの堂島家には来ていないし、あの電話をとるタイミングで近くにいるなんて偶然すぎる。なんと誤魔化そうか決めかねていた私に足立さんが助け舟を出した。
「いや、実は姪っ子ちゃんが河川敷で泣いてるの見つけちゃって」
「……はいィッ?!」
助け舟というよりこちらを沈めにかかってきた。真実を話せばお互いに撃沈するしかないが、その言い訳では主に私だけが被害を被ることになる。
「ホームシックみたいですよ」
「……そうなのか?」
「ち、違います違います!! なに言いだすんですか足立さん!!」
ホームシックなんてなるほど住み慣れた家なんて引っ越しに継ぐ引っ越しでもう帰る場所ですらないし、親の転勤にも家にいないことにももうずっと前に慣れた。この『2011年』では足立さんにそんな話していないから知らない事情であるが、言い訳にしても適切ではないと思う。いやそれは私の立場だとデメリットでしかないだけだからだろうか。とぼけた声と表情で「あれ、違うの? 向こうに帰りたいんじゃないのかなーって」とのたまう足立さんに思わず声が荒れる。
「私はここにずっとでもいたいですッ!」
そんなこと口走ってしまってからハッとした。何に一番驚いたかといえば、自分が無意識かつ即答で「この地にいたい」と言ったということ。というか、ここってどこだ。八十稲羽? 堂島家? それとも、足立さんの隣?
苦しい思い出ばかりある八十稲羽にいたいのだろうか。父子で過ごす堂島家にいたいなんてワガママ以外のなにものでもないではないか。足立さんの隣なんて論外だ……私が求めていいものじゃない。
それに、ここに私がいていい居場所はあるのだろうか。
自分の発言に打ちひしがれていた私に、軽く咳払いしてから「あー、そのことで実は姉貴と少し話したんだが」と叔父さんが髪をかきながら、なんだか隠し事を打ち明ける子どもみたいな目で私を見る。
「お前、こっちの高校で卒業しないか」
――この瞬間、時が止まった気さえした。
「姉貴や義兄さんの仕事で転校ばっかりだったろ。就職はこっちだと不利になるかもしれんが、あまり生活環境が変わるのは良いことじゃないし、お前さんは頭がいいからもし進学するならこっちで推薦取るなりじっくり勉強するなりできるだろ。俺としてもいてくれると家事や菜々子を任せられるからな。まぁお前がもしよかったらの話なんだが……」
「私……ッ!」
声が裏返るほどの一言になって、もはや叫びに近かった。目を丸くしている叔父さんを見て冷静さを取り繕うとするけど、心臓の鼓動が速い。自分がなんの感情で動いているか、判別できないほど心の波がざわめいた。できるだけ声のトーンを落とそうとするが難しい。
「私……ここにいて、いいんですか……?」
一文字一文字しっかりと発音しながらの問いかけ。そして思わず足立さんにも目配せしてしまう。別に足立さんからのなにかを期待したわけではなかった。ただ、さらに1年を過ごせば足立さんからすると面倒ごとが増える結果にしかならないように思えたのだ。だから様子をうかがってしまう。
そんな視線を受けると足立さんの眉がピクリと跳ね――作られた穏やかそうな表情がみるみるうちに壊れた。
「望めるのに自分から突き放すなんて、キミは何様なんだよ」
鋭く切りこまれ、息と声を失う。
堂島さんも驚いて足立さんを見たけど、もう緩い笑みが再構築されていて、不思議そうな顔だったが私を見据えて優しく諭す。
「お前さんは家族なんだ。今さらそんなこと聞くな」
その言葉に涙があふれる。どんなに苦しくても無意識に歯を食いしばって立ってきたが、今回だけは嗚咽をかみ殺さず、ただただ泣いた。足立さんと出会ったこの『2011年』の雨の夜以来の、感情を暴走させた時だった。
「今日はありがとうございました」
「気が向いただけださ」
目がしょぼしょぼして、顔がまともに見れない。あんなに人前で大泣きしてしまうなんて、何年ぶりだろう。ちょっと恥ずかしい。寝ていた菜々子すら起きてしまって――しかも叔父さんと足立さんがイジメたと勘違いしたらしく、あの子まで泣きだしてしまい収拾に手間取った――申し訳なさもいっぱいだ。足立さんは気にしていないのか、ただ寝むそうにあくびをした。「ひとつ借りね」と加えるあたり今のセリフに心はこもっていない。そんなしたたかさが足立さんらしいからいいんだけど。
「……あの、足立さん」
「なに」
「あのとき、私になんであんなこと聞いたんですか」
「『あんなこと』ってどんなこと? なんのこと?」
内容はわかっているという顔だったから「はぐらかさないでください」と強く訴える。『行かないでって言ったらどうする?』……その以前のセリフだって、足立さんの口から聞けるなんて予期していなかったものだったから混乱した。足立さんの真意を知りたい。今の私にはその一歩を踏み出す勇気があった。
「べっつにー。深い意味はない」
「……そうですか」
いや、特別な意味なんて欲しいわけじゃないから、それでもかまわなかった。ただ足立さんのきまぐれな発言に振り回されるのも、ときどき嫌になるがやめて欲しいとは思わない。そうやってかまってくれるだけで嬉しいから。
じゃあもう帰るよ、と背を向けて歩き出す足立さん。夜の闇に少しずつ姿を消していくその背中を少し霞む視界で眺めていたら、ギリギリまだ目で追える距離でその動きが止まる。
「ただキミのああいう困った顔が好きだから、思わずいじめたくなっただけだよ」
そんなことサラっと告げて、振り向きもせずそのまますぐに闇にまぎれていってしまった。
去り際そんな風に軽く付け加えられたりして心臓が大きく跳ね……一瞬止まった気さえする。そんな何気ない『好き』という言葉が、胸を焼く熱い感情をくすぶらせた。処理しようとするも、喉がつまって息苦しい。
やっぱりあなたはズルい人だ。場所なんて、立場なんて気にせず、今すぐにでもあの背中を追ってもう一度抱きつきたくなってしまったじゃないか。今回はさすがに引き離されて終わりだろうか。それとも。
なんて憶測考えて自然と笑みがあふれた。足立さんの言う、年相応の笑みだ。
『望めるのに自分から突き放すなんて、キミは何様なんだよ』
その言葉をもう一度噛みしめる。
私はいろいろなことから逃げていたのだろうか。特捜隊のみんなや、足立さんや、自分自身から。
もう一歩進んでもいいんだろうか。
あの頃には戻れない。なら、もう作るしかない。あの頃のようにならなくても、自分が住みよいようにしていくしかない。
八十稲羽や、堂島家や、足立さんの隣である、ここで。
止まった時間は動き出す
(私は新たにみんなと関係を築いていこうと思う。それが第一歩だ)(これで未来は変わって私は『2011年』を続けなくて済むのか、まだわからない。それでも掴める可能性を潰すことは、もう終わりにしよう)