「羨ましいよ」
Δ 隠されし 禁断の 絶対城壁
天上の途をふさぐ門と思われているが、じつは巨大な円形の一枚岩で、この内側に神々の楽園が広がってるとされているモーリー・バロウ城砦。最果ての門に刻まれたイリーガル、脈打つ血管のように息づく三又の『サイン』の前に立つカイト。
「ハセヲは三爪痕を求めている。今こそ『三爪痕』として姿を追っているのはぼくであっても、最後にたどり着くのは――」
あの男。
表情の読めないサングラスの人物が脳裏をかすめると心臓がじめじめと湿気を帯びた空気に晒されているような不快感で満たされ『サイン』に双剣を打ちつける。少し前にもあの男を追えない、追いつけない自分の不甲斐なさからそんなことをしたなと頭の片隅に置きながら。
「……羨ましい」
ハセヲ。ぼくを――――。
「――なんて、今さら……言えないけど、さ」
誰に聞かれるわけでもないのはずなのだが、消え入るような小さな囁き。直後に現れた気配を察知し、ゆっくり振り返った。
「後悔しているのか」
そこにある影を背負う、青を基調とするディテールの装備とは外れる橙色のレンズの下に目元を隠した、長身。このゲートサインを作り出したプ者、オーヴァン。――ハセヲが真に求める、三爪痕。
「それとも嫉妬か?」
「……そうかもね」
「男も女も、嫉妬というのは醜い」
「人間らしくてぼくは嫌いじゃないな」
「今日はよくしゃべるじゃないか。少し前に追ってきた時はただの餓えた獣のように吼えながらまっしぐらに斬りかかってきたというのに」
それがお望みなら、とカイトは刃を構えた。灯る蒼い炎が獲物を待ちかねて挑発するように勢いを抑えながらも揺れている。
「物騒なものだ。それにしても『人間らしくて』……か」
くくっ、と薄気味悪く喉と口元だけ笑わせた。この男の牙と対峙する心を強く持とうとするようにいっそう双剣に力を込め、睨みを利かせる。
「確かに今、お前は人間ではないからな」
――あぁその通り、と甘んじてその吐かれた熱い毒をカイトは飲み込んだ。ネットのなかに『カイト』という存在はある。ただ立っているだけでも流れ込んでくる膨大な情報を、生身――というのはおかしな話しだが現実からこの空想世界に呑まれた剥き出しの人間の精神は処理するだけの能力を、持ち合わせていない。すべてを受け入れきれず、取捨選択もできず、こぼれる前に壊れてしまう。
それを解消するために『カイト』の精神とリンクする、女神の創り出した『もう一人のカイト』が存在。
彼によって情報を取捨処理が行われ『カイト』は正気を保っている。普段は保護・保存のため『もう一人のカイト』が身体の主権を握っているのだが、少しの時間であれば権利は受け渡され世界を見つめることもしゃべることも何処へ行くことも好きにできる。
リアルのカイトは意識不明、いうなれば未帰還者。
このPCボディを操る画面はなく、人間もいない。今のカイトは放浪AI、データ同然の存在だ。カイトがリアルの、『カイト』というPCのプレイヤーであることを確かに証明できるのものはなにもない。人間なのか、データなのか、不確かな記憶と意識を手繰り寄せ織り込んだ矜持が自分をカイトと認識するのみ。――しかしそれも組み込まれたデータ、と割り切れてしまう代物なのだが。
「俺に勝てるのか? AIでしかない、騎士が」
「ぼくはどうなろうと、また再生される。この身体は、意志は、折ることはできない」
「身勝手な女神の願いなど聞き入れ、従うお前は、なにを考えているんだ?」
……わからない、とカイトは素直に心で呟く。
ぼくも時々『自分』がわからなくなる、けど。ぼくはアウラを見捨てられないということは、ハッキリしている。
(――それも、本当は不確かなんだけど)
「『女神のため』……それだけじゃ、ないだろう?」
(ぼくの心の底、隅に縛りつけているものを)(この男が代弁するように言葉を口ずさむ)(その通りだ)(ただ、わかっているのは)(ぼくが、ハセヲを捨てきれていないということ)(彼が未帰還になるかもしれない可能性を知りながらデータドレインを使用した)(勝手に記憶を消しておいて)(そんな、酷いことをしておいて、ハセヲが好きだということ)(ハセヲ、ハセヲ)(ハセヲ、君が好きだ)(君がスケィスでも)(スケィスが憎くても)(君が大好きだ)(ハセヲが大好きだ)(ハセヲ)(ハセヲ)(ハセヲ、ハセヲ)(ハセヲハセヲハセヲハセヲハセヲ)(ハセ、ヲ、はせお、)(すきだ)(はせお、)(ぼくを、みて)
カイトの精神はもう壊れはじめている。それを、カイトは知ってる。
女神がカイトの意志を尊重するように、カイト自身が想いの選択を行えるようにプログラムされた結果、『もう一人のカイト』はカイトの精神からの情報を処理する機能を持ち合わせていない。措置ができない。
止めることができない。ゆえに『もう一人のカイト』に支障がきたされ情報処理が追いかずカイトという精神が、人格が、理性が情報によって塗り替えられ曖昧になっていく。
それでも、カイトはこの仮想現実で『カイト』として生きている。
(まさかこのMMORPGでぼくをロールしている)(まさしく放浪AIのように)(ぼくが『ぼく』をわからなくなるまで)(わからなくなっても)(演じ続ける)(ぼくの知る『ぼく』を)
女神の騎士であるカイトが、この男の言葉に惑わされず今、やるべきことは――イリーガルの排除。
視界が白に薄く染まり、意識が少し後退して夢でも見ているような心地になるのは、主導権が『もう一人のカイト』に移ったからだ。
初めてあった頃より口数も少なくなり、糸が切れつつも、どうにか自分の役目を果たそうとするマリオネットのようになってしまった『もう一人のカイト』。
(ごめん)(ごめん、なさい)(ぼくが弱いばっかりに)(君もぼくも、壊れた)
蒼炎が唸りあげて迸る。あの男は口元を吊り上げて、エフェクトに包まれ逃走を開始。『もう一人のカイト』もすぐさま後追う。
憎い、憎い、憎い憎い憎い憎い、
AIDA。女神を苦しめる、異物が。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い、憎い、
(はせおにもとめられる)
あの男が。
薄まる意識のなか、なお膿み、腐り、想いが増大していく。それは、もう止められない――唯一止められるであろう彼が、傍らにいないから。
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